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稼いでから思ったことを書くブログ

借金500万。33歳が起業6ヶ月で月100万円稼ぐまで

”自信がない、出来るわけがない” 自己否定オンリーの人間が月100万稼ぐようになった話

赤く焼けた夕焼け

夕焼け

自分嫌いから前向きに変わった自分

こんにちはHideです。 インターネットを使ったビジネスを始めてから8カ月目に突入。

恥ずかしい話ですが、今までほとんど自分の人生を 「あきらめて」「サボって」「逃げて」「誰かのせいにして」 無駄な時間を過ごし続けました。

今まで、ガマンして仕事で頑張ってきたのに、誰かにバカにされたり、相手にされないのが本当に悔しかったんです。 8ヶ月前にリストラされて、一生の終わりかと思っていましたが 「自分を変えたい。周りを見返してやりたい!!」と誓って33を過ぎて、会社員からフリーになりました。  

周りにフリーでやっていく決意を友人に語ったときのことです。

『再出発とか、新しく物事始める年齢で言えばもう「ジジイ」だ』といわれて本当に頭に来ました。

しかし言っていることも事実、当たっていたので 自分は人生で最大の、みじめで悔しい思いをしたのを今も忘れません。   「こいつらを絶対に稼いで、見返してやる。」と決意しました。

稼ぐまで絶対にあきらめないと誓って、今までダメ人間だった自分を変えるために行動してきました。

努力して、あきらめないで今の仕事を継続した結果、今では月100万以上収入が入ってきて 税金や生活費など、

生活する上でお金の不安はかなり減りました。

フリーになって3ヶ月間は 昼は吉野家の並盛りすら食べられず、スティックパン6個入りを1食に2本とかでした。

今は値段を気にせず、食べたいものを注文できているのは、幸せと言うほかありません。

 

 

(お金が無いときは近所で写真を撮ってました)  

旅行すると、1泊2,000円くらいの安い宿しか泊まれなくて貧乏でした。 施設が壊れててエアコンない部屋とかしょっちゅうでした。 今は1泊30,000円くらいのホテルに泊まっても良いくらいには旅行の質が良くなりました。

(稼いでからは、初夏の北海道がお気に入りです)

 一時は借金を500万円以上抱え、死ぬかどうかも迷ったこともあります。

現在は返済を続けて、半分終わってゴールが見えてきました。

趣味のカメラは1万円のデジカメを3ヶ月我慢して買うのがやっとでした。

周りはどんどん良いカメラを買い換えるのにボロい物をずっと使い続けていました。

けど、稼げるようになってからは一眼を買って楽しんでいます。

 

大学まで落ちこぼれ、フリーターから就活。

派遣切り、雇い止め、リストラに遭って再就職せず独立。

学校、企業で切って切られまくってやりたいことを探して稼ぐまでの自己紹介をさせてもらえればと思います。

「自分の事が大嫌い」な人の中でも、これ以上の自分嫌いはいないと断言します。

いま、「自分はダメだ…」と思っている人も「まだやれることがある、終わりじゃない!」と 感じて欲しいので、

自己紹介を書きました。  

 

昔から、自分は他人の話に『共感する』ことが絶望的に苦手です。

他人の立場に考える方法とか分からなくて、

これが原因で仕事で失敗したり 彼女と別れたり友人関係で大きな失敗を何度も経験しています。

 

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それに今やるべき事をやりたくない理由を見つけて怠けました。

フリーターの時は1日中寝てて、気付いたら3日経ってるとかサボりぐせもありました。

今の仕事に出会うまで、実際部屋は10年以上ゴミ屋敷状態。

何をやっても中途半端で、投げ出してました。  

 

社会人になってからは、ブラック企業で残業とかパワハラを受けてリストラも経験。

ですが、自分と『徹底的に向き合う』事で、『過去の弱い自分を受け入れる』訓練を積みました。

自分の弱い部分がハッキリと分かり、話し方や考え方を勉強することで弱点を無くすことが出来ました。

自分の周りでは弱みを逆に強みに変えるくらい、努力家で意思の強い人が存在します。

 

でも話を聞くとほとんどの人が『最初は結果が出ずにサボったりしてつらかった』など

共通の経験をしていたのです。 最近のところだけ知りたい方は、

就活断念、フリーターになる」から読んでもらえれば良いと思います。

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出生(洋服はいつも古着、欲しいものは買ってもらえなかった)

1984年6月。 自分は東京都郊外、山が多くある田舎に生まれた。

父母と兄、自分の4人家族。当時、古い一軒家に住んでいた。  

お金が無かったので、ご飯はいつも1週間工夫したものが多かった。

増えるワカメや水で戻して使う乾物で、お腹を膨らませた。

 

服はいつも兄の古着で、買いたい物は欲しいおもちゃも、ゲームもほとんど買ってもらえなかった。  

まだ幼稚園に通ってた頃、休日には時々、両親はどこかに連れていってくれ

て 遊び相手になってくれたのを覚えている。

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兄とはいつも、ケンカして殴り合ってた。 テレビのチャンネル権を取り合いになって、ケンカしたときに骨折したのが一番の思い出。 子供の頃の夢は「天文学者」。

科学の本が好きで、宇宙ステーションに人間が住むか本気で考えていた。

夢はまだ捨てきれずに今でも天文学関連のテレビやニュースは毎日見ている。

 

親戚はいつも仲良くしてくれて、年の離れた兄貴分のいとこと特に仲良し。

「いとこみたいな人になれたらいいな」と尊敬していた。

 

ときどき、家族でそろって出かけて楽しんだりした。

たまに、父親にお願いするとヒーローショーとか連れて行ってくれてすごく楽しかった。 

本当にやりたいことについて、父親だけは自分のお願いを聞いてくれた。だけど、怖いところもあった。

 

家族が寝た後に帰ってくる父親はときどきストレスが爆発して夜中、母親に当たり散らすのでとても怖かった。

5歳になってすぐ、ある日、父親が会社を辞めたって聞いて驚いた。

どうやら独立するらしい。

 

父親は仕事ではいつも健康だったのに体調崩したり、

やけに家に早く帰ったりするようになって慌ただしいと感じた。  

家族にとってはいきなりだったので、何の仕事をやるのかさえ分からなかった。

(後から聞いて、健康食品関連の仕事だと分かった) Black Ball-point Pen With Brown Spiral Notebook

今思えば、どうやって生活費稼いでいたんだろうってくらい不思議だ。

普通、独立したら稼げなくて苦しい時期があるから、見えないところで死ぬほど営業していたと思う。  

何も分からなかったから、成り行きに身を任せただけだったけど、父の会社員時代とほとんど変わらない生活を 家族全員、送っていたのは覚えてる。

きっと家族を養い、学校に行かせるために我が身を削って働いていたのだろう。 

学校って言葉を聞いたのは6歳になるころ。兄が受験して受かった小学校の制服がなんかカッコよく見えた。

「あの学校に行きたい!」とせがんで自分も受験させてもらうことになった。    

 

周りがハイスペックだらけ、独りだった小学校

Free stock photo of building, school, window, ceiling

1年間、幼稚園の最後の年に練習した自分の名前を漢字を書いて、九九まで言えるように勉強した。

それから学習テスト、面接対策をしてなんとか小学校に合格することができた。 

自宅から遠い学校。入学しても周りは知らないお金持ちの子供ばかり。

入学費用だってわざわざ、借金して出してくれた自分の家庭とは全然、世界が違った。 

 

この小学校に併設の保育園から入学してくる人が多い小学校だったので、知っている人はいないので1人だった。

1人で帰るとき、家までの時間が寂しくて本当に辛かった。

この学校は中学受験が強くて、附属校への受験、進学にすごく力を入れているところだった。

当然、勉強はきつい。進むの早いし難しい。   勉強について行けない。運動は苦手。 集団行動は出来ない。

人の言っていることが理解出来ない。 Free stock photo of wood, desk, notebook, office

みんなは全く逆で勉強はすぐ出来るし、運動、集団行動なんて得意。 言ったことをこうも何も出来ないと、頑張ればなんとかなる」って思っていたがボロボロに崩れた。 1年生終わりの段階でもうイヤになった。 

周りは医者、資産家、社長の息子…お金持ってる家庭の子供ばかり。 ハイスペック家族をさらに踏み込んだ世界だ。 Luxury Yacht Boat Speed Water River Ocean

当時流行ってたゲームは発売日に買ってもらうのが基本だし 夏休みになればみんなハワイやヨーロッパに行って日焼けしてくる。 食べてるものも我が家では1年に1回行けるかどうかの高級なお店をバンバン使う。

お年玉の自慢になると、5万、10万なんて当たり前。   特に行事は最大のストレスイベント。

行事の中で遠足と運動会はつらかった。 遠足は行かないとバカにされるし、

弁当が豪華かどうかの内容で比較されるのが何よりつらかった。 Lunch Box, Tiffin, Meal Box

運動会では周りより足は遅いし、反射神経も鈍い。

まるでクラスのお荷物だった自分は自分が悪いと決めて周りを避けていた。  

生まれが裕福な家庭は、何でも持ってるし、何でも出来る。

何もかも上を行く、周りの人たちを「正直住む世界が違う」と感じていた。

 

うちはそんなお金なんてないし、海外なんて行ったことなければ、ホテルのディナーとか食べたことない。

「こんな学校入ったのが間違いだった」とも思った。でも高い学費払ってまで行かせてくれた両親に申し訳なくて 何も言えず、「楽しくやってる」と嘘をついて6年間過ごした。

 

周りにも持ってないものを「持ってる」とか言ってウソで見栄を張ってたりしてた。

偽ることでしか自分を肯定出来ないハッキリ言って子供のクズだった。 Close-up of Teenage Girl

今でもこんな子供の言うことを、聞いてくれた両親には今でも頭が上がらない。  

 

6年生になって受験戦争まっただなかで、周りは進学先や附属大学まで盛り上がってたのを今も忘れない。

「どこまで将来見えてるんだよ」って冷めた感じで見ていた。 ハナっから受験なんてしないので(お金もないし)行く先は地元の公立の中学校って決まっていた。

 

卒業を迎えて、「ようやく解放される」と思っていたが、次の地獄が待っていた。    

 

 

イジメ・暴力事件に遭って人を信じなくなった中学時代

下手くそな英語の発音をめぐって

中学校に入った自分は少し安心していた。幼稚園のときに一緒だった友達が何人かいたからだ。

小学校よりは気持ちがラクだったし、金持ちとか住む世界が違う人もいないし周りと同じ感覚を持ってた。

「つらい事はないだろう」と感じていた。  

だが入学して2週間、事件は起きた。 英語の授業でアルファベットの発音で当てられた自分は、

たどたどしい発音で周りからバカにされたのだ。

「この舌っ足らずー!」とか「田舎者」とか思い出したくない悪口ばかりだった。

 

  「L」とか「M」の発音とか苦手だし、正直キツかった。

知らない事でこんなに屈辱を味わったのは初めてだ。 その日の放課後、掃除当番だった自分は急に掃除用具箱に閉じ込められた。 3人くらいで扉を押さえられたものだから、1人の力では敵わない。

「発音うまく言えるまで出してやんねー!」

「お前が謝ればここから出してやる」

 

  訳も分からず、謝ることしか出来なかった自分はただただ泣きわめきながら許しを求めた。

誰か来たらしく、表でドアを押さえていた奴らは走って逃げていった。  

周りの人たちも自分を避けるようにして去って行った。 誰もいない夕方の教室はとても寂しかった。 Free stock photo of man, person, wall, alone

後から聞いたら、入学日に友達になった奴も混じっていたらしくショックを受けた。  

「人は裏切るんだな。信じたって無駄だ。」 「どうせ」「自分なんて」と毎日ボヤく日々が続いた。

その頃から、他人に共感することが全く出来なくなった。 他人に興味を無くした結果、「すごいじゃんそれ!」とか友達は出来ても、人に共感する感情がほとんど無くなった。

 

ケガしてる人がいても、平気で見過ごす感じだ。  

自分の取った考えは、「感情は起こさない方がラクだ」だった。

こうして大学のある出来事が起きるまで、しばらく人といる間は無感情だった。

イライラする自分を見せたくなかったんだ思う。

部活に入るが、カツアゲされる

むしゃくしゃするから、スポーツやろうと思って部活を探した。

テレビで見てときに衝撃を受けたバスケット選手マイケル・ジョーダンに憧れてバスケ部に入部。 が、先輩や同級生からシューズを壊されたり、盗まれたり。 またカツアゲの対象にされたりロクな事がなかった。

 

ここまでされて毎日、体育館の柔らかいマットを殴りまくって気持ちを落ち着かせていた。

先生は見て見ぬふり、当事者は知らん顔。無関心を装って、ウラではめちゃくちゃ悔しかった。

こんな日々が1年続いた。   結局、部活は3年間続いたけどスーパースターに憧れて「あんな風に上手になりたいな」と思っていたから なんとか続けられただけだった。特に楽しいとか、何も感じずに流れでやっていた。    

運動会直前、理不尽に殴られ、ボコボコにされる

. . VIOLENCE in the peaceful place . . 中学2年のとき、ある事件に巻き込まれた。開催の1週間前、練習場所を巡ってクラス同士のケンカが起きたのだ。

自分は割って入って事情を聞こうとしたら、当時学年の人気者で、力が強かったA君にぶん殴られた。 頬のあたりに、すごい鈍い痛みがあって保健室に駆け込んだ。

診察の後、保健室のベッドで寝かされて「痛てぇッ…」と声が出る。目の辺りがジンジンして、半分目が開かない。 医者に行くと暴力がばれるから「医者へは行かないように」とA君担任の先生からは口止めされていた。

 

あとからA君の担任が謝罪に来たが「謝ってケガが治るなら、医者いらねーよ」ってひどく悪態をついた。

ひどい言葉を吐いてあとはやり過ごすしかなかった。やり返すには力の差がありすぎる。 刃向かったら多分またボコボコに殴られる。

この後もせめて自分がいじめられないようにA君グループで仲間外れにならないようにウケ狙いをしたり、 空気を読んだりご機嫌を取ることだけやっていた。   「人生、こんなことばっかりでクソだな」正直疲れた。    

イジメっ子を見返すために勉強した

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イジメっ子と関わらないで済む方法はないか、考えた結果この人達と付き合わない事と勉強をする事だった。

ガリ勉ならそもそも接点がないし、向こうも気持ち悪がって寄ってこないのは分かっていた。

「気持ち悪い」を利用して人を避けるのも消極的にもほどがあるけど、マシと言える方法が他に無かった。

中学2年の春から、帰宅してから1日3時間だけど勉強した。

 ただ周りを見返したい、それだけだ。 学校の勉強はやりまくる内に、少しずつ分かってきて教科書以外の参考書も読んで問題を解いた。 友達は実際、ゼロになったけど、1年生の時は下から数えた方が早かった成績は 2年生の冬、試験終わった後でなんとか上位10位前後に食い込むようになっていた。8ヶ月頑張ったかいがあった。

 先生からも少しずつ「成績が良くなった」とか内申書に記載が増えて、少し自信が付いた気がした。

周りから「おい今回は何点だった?」とかそのくらいは会話が出来るようになった。 オール100点取るような人にはかなわないけど、「そこそこ」な場所でも悪くないんじゃないかって考えようになっていた。この考えが、15年、20年経ってモロに跳ね返ってくることになる。

  中学3年になって、夏休み前に進路相談をするタイミングでは推薦受験が可能なラインに並び、自分から受ける高校を選ぶことが出来るようになっていた。 塾に通って一般受験に備えながらも結果的に、推薦試験で大学の附属高校を受験して合格。 ほっとして家族に電話して、担任にもすぐに話した。このときは結構嬉しくて、誰かにすぐ伝えたかった。  

 

サボり、諦めて過ごした高校時代

ケガばかりの部活

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高校ではイジメには幸い、1度も合うことはなかった。部活の勧誘で誘われて、見学したバスケ部に即、入部を決めた。 3年生の先輩の中でも特に上手い人がいて、憧れたからだ。中学の頃と違う、動きのキレとか華麗さに目を奪われた。

その頃NBAでスター選手がたくさん出てきて、友達にNBAを録画したビデオを借りたりスポーツ雑誌を読んで熱中した。 朝の練習が終わると授業では眠り、先生に叩き起こされたり、お昼前にお腹が空いてご飯を食べたりした。

週6回の活動なので相当過酷だったけど。好きだから続けた。  

部活が楽しくなってきた5月の練習中、大けがをした。 右脚太ももの筋肉が肉離れ。全治3ヶ月。期間からして、夏休みの合宿や試合には参加出来ない。  

週2回、午前8時の診療を受けるために、家から1時間掛かる遠い病院へリハビリに通った。

朝6時に松葉杖をつき、満員電車に揺られ授業には1時間、遅れて行く事が多くなった。 

そのせいでクラスや担任からは「たるんでる」「甘えてる」と言われた。 この言葉は何よりつらい。ケガしたのは練習不足で、自分のせいだから余計にこたえる。 

 

練習は毎日見学になって、憧れの先輩とコートでプレイすることは1度も無かった。 夏の地区予選が始まって、2回戦で負けたため先輩のプレイは3ヶ月しか見られずに終わってしまった。 3年生が引退した後、憧れの先輩がいなくなり身近なスターを失った自分はバスケットに興味が無くなってしまった。

憧れがなくなると、ダラダラしてしまう。練習はやるけど、没頭しきれない。 何の目標でやっているのか、分からなかった。

部活中もメニューを1人でこなす。コーチや顧問に怒られる事も気にされる事もなく黙々と筋トレする毎日。 退屈だったけどとりあえず、続けてみる事にした。部活してないと、1人の孤独に耐えられなかった。3ヶ月間、みんなと別メニューでトレーニングした後完治して練習に合流。

 

「どうせ変わってない」と思ってた自分の想像より良い動きが出来るようになっていた。少しだけ、バスケをやる楽しみが見えた。   復帰してからしばらくは練習試合に参加したり、大会に向けたレギュラー選抜で頑張ったり、楽しくプレイできた。 初めて高校でレギュラーのユニフォームもらったときは嬉しかったのを覚えている。ケガ復帰後から2年生の夏までは、 やる気も続いて充実していたと思う。  

 

だけど目標を持たないといつかはダレてしまう。2年生の12月、緊張感を持たないでプレイしたらケガした。 今度は右足の靱帯、診断の結果は全治4ヶ月。最後の3年生の大会は絶望的な期間だ。

最初はリハビリもしたけど後輩がレギュラーになったり、みんなに追いつけなくなった。

「もういいや、面倒くさい」という気持ちにバスケットへの興味はとうとうゼロになってしまった。

年が明けても、やる気はゼロ。中学から5年間続けたバスケットを諦めた。諦めグセが付いたのはこの頃からだ。    

 

泣きながら逃げ出した受験

高校3年生になって、大学受験に向けて予備校に通った。 志望校は、明治大学法学部と附属高なのに、

外の大学受験を選んだのはただの格好付け。それだけだった。

学校は、内部の受験対策に追われて学力を上げる勉強というより、試験の対策しか無かった。

時間がもったいなくて、塾のテキストや他の参考書を授業中に内職して勉強した。 内職がバレて、職員室に呼び出されて怒られたこともある。  

 

日に日に、内容も濃くなってきて、難しい。夏の模試もボロボロで、英語が決定的にダメ。

「1日6時間勉強してたくらいじゃ受からない」と予備校の成績を見て愕然としていた。

ただでさえ何のためにやるのか分からない勉強を、これから1日10時間とかやると思うと気がおかしくなりそうで、 とうとう夏休み終わり頃、予備校を逃げ出した。サボった。

 

いきなり夜、飛び出して逃げたのでその日、家には帰らなかった。 いつまでも帰ってこないと、家族は大騒ぎ。携帯電話の電源は切ってるし、連絡はこっちがしたくなるまで絶つことにしていたからだった。

中学校時代の友人の家に駆け込んで、1晩グチを聞いてもらった。

あのとき、グチを聞いてくれる友人がいなかったらもっとひねくれていたかもしれない。

 

夜通し友人と将来の不安とか、日頃のストレスを話し続け明け方に少しだけ眠った。 目が覚めて、お昼前に家に戻った。   父親から殴られたり、母親から叱られると思ったが「心配した」と言ってくれた。

両親に心配を掛けるって心臓に悪い。「困らせたらいけないな」と泣くのをこらえてただ、反省した。 Fog Train Station Moody Black And White Al

残りの半年間はひたすら勉強した。今考えたらがむしゃらにやるのは効率は良くなかった。だけどやるしかなかった。   時間が惜しくて、年明け3学期から14日間学校を休んで、予備校の自習室にこもった。 家には学校から鬼のような電話が毎日入り、両親は初めは突っぱねてくれたものの、14日でとうとう参ってしまった。

15日目、顔を出して担任に現状を説明した。休むまでは、皆勤だったので問題ないと思っていた。

「内申を下げられたくなかったら学校に来いよ?」 「毎日、生徒指導室に放課後、来なさい。」

噂では暴力を振るう、めちゃくちゃ怖い先生だったので従うしかなかった。 1月半ばから、受験シーズンまではまた退屈な授業に出ざるを得なくなった。    

 

大学受験、不合格の日々

受験が始まって、合計10個の大学に応募した。ムダした分含めて40万円くらい掛かった。

本当に今になって分かるけど、両親には申し訳ないことをした。 5個目の大学を落ちたとき、

9個目までの受験を自分はサボったのである。サボった分16万円、ドブに捨てた。 もっとひどいかな。

わざわざ火の中にお札入れたようなものだ。 落ちてばかりで自信もなくなってもう止めたくて仕方なかった。

兄からのひそかなエール

最後に受けた10個目の志望校は、受験直前まで応募できて2月末の試験だった。

一応、夜間の大学だけど明治大学の法学部。そんな情報をいつもケンカしてた兄が見つけてきてくれたのだ。  

家族からの応援で少し元気が出た。 浪人できる家計状況じゃなかったから「あと1戦」と言い聞かせて予備校に引きこもって10日間、過去問と向き合った。 試験はなんとか無事に終了してあとは合格発表を待つだけ。

 

発表を見るまでの電車の時間が外に聞こえるんじゃないかってくらい心臓がバクバクして緊張していた。

  頑張ったかいがあって、あとで自己採点してみると苦手の英語を除いて高得点が取れた。

なんとか滑り込みで大学に合格出来たのだった。浪人せずに春を迎えることが出来た。    

 

マルチにはまり借金50万。友人・彼女・信用を失った大学

ãæ治大学 ãªããã£ã¼ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ 憧れてた兄貴分と「同じ大学に入って、いずれ法律の資格を取って働きたい」と思って大学生活がスタート。

勉強の合間に始めたバイトはメカが好きで、家電量販店にした。新人イジメはあったけど販売は人並みやったから 文句は言われなかったのでガマンしていた。  

 

夜、授業が終わって、大学の友達と一緒に食事したメンバーの中にすごいタイプな女の子がいてメール交換を申し込んだ。それから何回か遊んで告白してオッケーをもらうことが出来たのである。

人生初の彼女が出来た。「もしかして今までで最高にラッキーな時期なんじゃないか!」

1年の春は本当に浮かれていたのを覚えている。

 

彼女とは週3回くらい会って、今までの学校の話をしたり、彼女の話を聞いた。 話していく流れで彼女が、自分の気に入らない点がいくつかあって、 「人のこととやかく言うな」 「共感してるときってロボットみたい」と指摘した。

当たってたから余計にムカついて反発したこともある。自分の欠点を認める広い心は、この頃まだ持てなかった。   どうやら他人のことを無意識に「○○してくれたらな」とか言っていたらしい。 めっちゃ人の悪口言ってたなんて知らなかった。

 

後から振り返って、自分の悪いところは全部指摘してくれた人だったので、今はすごく感謝している。

話を聞いた彼女の状況はとても両親から愛されて、人の痛みに共感してあげられるとても優しい人だった。

そして子供が好きなので教職免許を取るために勉強していたらしい。その後の夢が叶ったかは分からない。    

 

借金に手を出して、全部失う

Explosion Glass Buttons Exploding Dynamic 

販売のバイトをしながら生活費を稼いで今まで出来なかった「自分で欲しいものを買う」ことが楽しみだった。   「欲しいもの、どんどん出て来てお金が足りないな…」 「バイト以外に稼げる方法ないかな」と思って調べたら、

1年生の夏、MLM(マルチ)に行き着いた。 何より怪しさ満点だったが影響力のあるトップの人がいて、毎月指定された商品を購入しつづけなければならない事だった。

 

初期費用は20万円。毎月掛かる商品代金が2万円。大学生にとっては生活に関わる金額だったが、お金欲しさに担当者に言われたことを鵜呑みにして借金して払った。

高校のときの同級生もやってる人がいて、友人の紹介で興味ある人を誘ってみた。 結果、契約は取れなくて結局カフェ代とか影響力のある人を呼ぶのに掛かったお金は全部自分で負担した。

 

これを何十回と繰り返して月日が経ち、借金は50万円まで膨らんだ。利子の力は日々、姿が大きくなるから恐ろしい。 毎月2万払っても、半分くらいは利子の増えた分で消えてしまった。 おかげで「あいつはカネばかり欲しがって、怪しい商売に手を出してる」と周囲の評判は底まで落ちた。

 

1番愚かだったのは周りの友人、彼女にまで話を持って行って契約して欲しいと迫った事だ。

結局大学時代の友人を全て失い「お金ばかり言う人は、嫌い」と言われて、彼女とも別れた。 彼女との関係は仲が良かったと思っただけに、彼女と別れたことは人生で1番へこんだと思う。

結局残ったのは、大学内での悪い評判だけ。強欲に突っ走り、自分の欲望のまま動いた結果だ。

「信用なくすと全く相手にされない…」とても痛い、高い勉強料だった。

 

勉強は留年しないように(留年したら退学と両親と決めてた)やっていたけど、 自分のやらかした事を引きずって法律の資格を目指す気力すら無くなって3年生になるまで悶々と過ごした。悩みを相談出来る相手すら失って結局誰にも相談出来ないまま時間を過ごした。 3年生になって誰も逃れられない就活の時期がやってきた。

100社落ちまくった就活

就職が学校生活のメインになると周りはリクルートスーツで大学に来る同級生が多くなる。

周りに合わせてスーツを着て自分も就職相談に通い、販売の経験を生かした仕事を中心に面接や説明会を受けた。

梅雨や夏に黒いスーツ着て何社も受けに行くのは暑いし、日差しをモロに受けるしハッキリ言ってやめたかった。

 

選考は書類で落とされることがほとんど。開始段階で20社くらい書類送って2社しか面談通らなかった。

目標のないまま、「とりあえず働ければなんとかなりそう」と何も根拠がない考えで、受け身だったからだと思う。 面接官に「目標は?」と聞かれても即答できず「…不採用となりました」メールでたくさん落ちた。 結局、100社くらい送ったけど全部落ちた。受かろうとも決めてなかったし、 「落ちてもいいや」と軽い気持ちでいたのが たくさん無駄な応募をしてしまった原因かもしれない。

 

とにかく時間とお金をたくさん使っただけに終わった。    

 

就活断念、フリーターになる

大学3年生の春から1年間近く、就活してきたけど内々定さえ1つも出なかった。

3月になって卒業を迎える頃、「フリーターやって、放り投げていた勉強にもう一度手を付けて法律の資格を目指そう」と考えた。   実際、そんなに甘くなかった。

受験していたのは「司法書士」という資格で合格率3%くらいの超難関。 合格のために仕事辞める人とか5年間浪人するとか、居るらしい。 自分は甘く考えてて「難しい資格取れば、仕事あって儲かるでしょ!」と気楽なものだった。

 

何をやらなくちゃいけないか理解もせず、バイトで貯めた50万円を支払って予備校に通う日々がスタートした。   お金の負担が大きくて、財布はいつも空に近かった。家から通うと、定期代は6ヶ月で10万円を超える。 食費、テキスト代、模試受験代…本当にお金が掛かった。

「努力せず、良い結果が出る」なんて あり得ない考え方しているから当然、勉強は死ぬ気で没頭することもなくサボっていた。 周りの受講生と外で昼食食べたりすることが楽しみだった。 

 

卒業したその年の春から勉強を始めて、1年間が過ぎていた。 集中してやっていた受講生は、付き合いは悪かったけど成績は抜群に上がっていた。 彼のように、1年間何もせずに勉強に没頭出来る人は その年の模試でも合格ラインで、本試験に見事、合格していた。

 

後から思えば、「没頭して、集中する」のが大事だとガツンと気付かされる体験だった。

1年経ってから学費の掛かる勉強はやめて「余裕だ」と考えながら、参考書メインの勉強を始めて2年間同じ資格を受験し続けた。 そのうち1回は受験するのが怖くて、受験日当日、会場まで行ったけど逃げて帰ったこともある。

 

受験してもラインにも引っかからず「出直してこい」レベルの散々な結果だった。   「ヤバい…」 3度目の試験(うち1回は逃亡)に落ちたとき、ヒヤリとした。

「26歳になっても何もスキルもないし、職業に就いたこともない」怖さが汗をつたって伝わってきた。

両親に迷惑掛けっぱなしで、立場も苦しかった。「来年は,来年は」と言いながら何も結果を出せないこのザマ。   「生活費も入れられないんじゃ何のためにやってるか分からない。

とにかく何でもいいから仕事してお金を稼いで、それから考えよう。」

試験は諦めきれずにいたけど生活のためなら働くしかなった。    

 

派遣社員、1年で派遣切りに遭う

ã履歴æ¸ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ 大学時代、販売のバイトをしていた経験を買われて、家電量販店で派遣社員として働くことになった。

当時売れていたデジカメと、プリンターの販売員だった。 旅行、季節の挨拶、年末年始と需要が多く、家電業界はこの頃毎年伸びていたので、売る人が足りなかったのだ。 ちょっと経験があったので、年下の上司にもイジメられたりすることは無かった。

時給1,500円で週2日だけ。月9万円くらいの中から、生活費用を出していた。 半分は両親に支払うお金で、残りは好きな洋服を買うために使っていた。ほどほど小遣いがあれば幸せだと思い込んでたので勉強して、法律の資格に合格する熱意はどこにも無かった。

「そこそこ」で苦しくなく、ラクに暮らせれば良いと思ってたからだ。全くもって甘い見通しだった。

1年間、同じ仕事を続けて成績が良いと褒めてもらえるようになった矢先。   派遣会社から1本の電話が入った。

 

「来月で今の仕事は完了になります」。

 

一瞬、状況が飲み込めなかった。 理由としては、メーカー側の予算が尽きたり、目標を達成出来ない人は、派遣社員は契約を打ち切られる。 今回は予算が尽きたことで、派遣される場所が無くなったのだ。    

 

27歳、初めてまともな就活

ã就活ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ 「どうにか同じ経験を生かせる場所はないですか」と必死に食い下がったが、ダメだった。

同年代のみんなからは、既に4年間も社会人経験が遅れてる自分にとっては、働くことがせめてもの救いだった。

他の派遣会社を探すか。試験も全部あきらめて就職するか。 

 

27歳、職業なし。 職務経歴書なんて書いたこともない。

Excelやワードもあまり分からない。 はっきり言って企業の求める人材としてはどこも手を上げない、不良物件だ。

 

でもとにかく面接に行くにはお金がいる。でもまったくお金がない。

1回、都内に面接に行くと往復2時間、2,000円かかる。貧乏人には重い金額だ。 

交通費を稼ぐために日雇いの引っ越し、工事、現場などバイトをした。 そこで稼いだ僅かなお金でギリギリ、生活と就活を両立させた。

今度は死ぬ気で職業を探しているので、面接対策本やSPI、自己啓発本をいくつも読んだ。

だけど、この就活では書類含めたら100社落とされた。すべて「年齢の割に経験がなさすぎ。育てるのがムリ。」という理由。 激しく後悔した。

自分はフリーター時代、寝ては1日が過ぎて、死ぬ気で勉強もせず遊んでいたことを。  

大学のMLMでお金に目がくらんで友人を全部無くしたこと、彼女と別れて後悔したことを深く反省していたら

もっと早くに気付いて真面目にやっていたかもしれない。

「たら、れば」は存在しなくて、実際は、遊んで何もせず幸運が向こうからやってくるのを待って努力しない怠け者だった。 4年間、ただ時間を「浪費」したことがあまりにも厳しい現実で跳ね返ってきた。 今でもゾッとする怖さ、痛さだ。    

 

契約社員に合格!だが…

MLM(マルチ)で友人を失って借金を背負い、就活100連敗で卒業し、2年間のフリーター生活を送ってとうとう働く以外に選択肢が無くなった。 いくつ受けたか分からない企業の中で、バイト時代に経験した家電業界の求人があった。 派遣社員の時代、知り合ったメーカー営業の人がいる企業だ。

 

求人サイトから応募する前に、その知り合いに電話をしてみた。  

自分「もしもし、営業●●さんですか。ご無沙汰してます。」

営業「○○(自分)、久しぶりだな!」

自分「今回、求人に応募しようと思いまして…」

営業「知ってる。人事は俺の知ってる人だから。」

自分「電話したのはその事なんですが…ちょっとプッシュしてくれませんか」

営業「しょうがないな、でも本番は厳しいから対策しとけよ」 自分「ありがとうございます!」  

 

これでもう、合格したら試験とか自分の夢を追うことは出来ない… だがやるしかない。

資格よりも、実際に働いて経験して、稼ぐ方が大事だった。 迷いはなくなって、心置きなくやり抜こうと決心した。 緊張して口ごもってしまったけど、試験は合格した。

27歳にして、契約社員として働くことに決まった。

「受かった!!!」と通知が来たときは本当に嬉しかった。全て体当たりで、どんな事を言われてもやる気持ちだったし 両親も「ようやく…」とホッとしていた様子で、嬉しかった。    

 

いきなり仕事のハードルが上がる

朝6時に自宅を出て毎日1時間以上、満員電車に揺られる生活が始まった。 会社に到着するだけでやっとだ。

職場に近い場所に住んでいる人は、いつもフルパワーであり得ないくらい仕事が出来た。

「社会人の年数が実力に跳ね返るのか…」この先が不安になった。

当時求められていた能力は、家電量販店でお店の人に商品を売ってもらうようになること。

合わせて自社メーカーの販売員に必要なトレーニングをすること。これは派遣社員のときにやっていたから、大丈夫だと踏んでいた。

 

他に、もっと大事な要件があった。

「各店トップと商談して、自社の販売に協力してもらうこと」

「売場を自分で提案して、装飾して作る」これは未経験だった。  

 

「出来ない」なんて言えない。「無理です」と言った時点でクビになるからだ。 だから「やります」と言って、資料を終電まで作り込むしか無かった。 その中で商談だけはどうしてもダメだった。

例えばイベント提案を持って行って店長とか偉い人の前に出ると、大惨事。 手に尋常じゃない汗をかいて、何を言っているのか分からなくなるほど緊張して身体が震えるのだ。 変なクセが出て、凄くイヤだった。

   

商談でまさかの大失敗、そして降格

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勤務して1ヶ月とちょっとが経過した。とある場所で偉い人と商談したとき、大失敗した。

商談の資料と、紹介する製品そのものを事務所に忘れたのだ。周りからは相当、バカにされた。 

普通に社会人やっている人からすれば「絶対にありえない」と笑っちゃう出来事だけど、極度の緊張症の自分にはよくあることだった。

受験のとき緊張しすぎて受験票を自宅に忘れることもあった。まだ克服できていない、自分の弱点だ。 

上司には今までにないくらい、こっぴどく叱られて相当落ち込んだ。 それもそうだ。一番力を入れている商品の紹介を、見事に自分の部下が失敗してすっぽかしたのだから。

 

悔しすぎて、深夜誰もいない会社で自分でも何を言っているのか分からないくらい、休憩室で泣きじゃくった。 だけどせっかく掴んだ仕事、辞めるわけにはいかなかった。 失敗を引きずりながらも仕事はこなした。  

なんとか挽回しようと朝は5時台に家を出て、7時30分に出勤して働き夜は22時過ぎまで資料を作った。

他の人の資料を読んで作り方を学んだ。

 

イベントの時は初電から終電まで働いて、1つでも成績になることは周りからバカにされても3ヶ月間必死にやった。

通勤は特に苦痛だった。6時初めでも特急が来る乗換駅では列の確保のために、みんなダッシュ

満員電車で席の取り合いや、ぶつかったりすると怒号が飛び交う。

帰りの電車では始発なのに割り込み乗車で警備員が来たり、ストレスしか感じなかった。

 

初勤務から4ヶ月が経ち、12月の始め上司から個別に呼びされた。

個別に呼ばれるのは、怒るときか、何かあるときって本で読んでて嫌な予感がした。

上司

「○○(自分)君には、今の職位から外れてもらう」

「このままの能力では、今の仕事が満足に出来ないと我々で判断した結果だ」

「降格して販売員でやっていくか、辞めるかは週間以内に決めて報告するように。。」

 

目の前が真っ白になった。 危機感が前に出すぎて、血の気が引いて、心拍が早くなる。

目は開きっぱなしで、呼吸は荒く、喉が渇く。状況が理解出来ず、パニックになっていた。

大失敗の後も大きな失敗をいくつもやった。常識があれば、問題にならないことばかりだ。

上座・下座を間違えたり、ノックの回数を間違えた。

物の受け渡しに必要な書類を取り交わし忘れた。

なにせ経費精算さえ満足に出来なかった。常識的なことが一切ダメ。

「何も知らないバカ」と言われるのも当然かもしれない。

「ここまで、何も知らない自分は何てバカで、アホなんだ…」 それ以外、何も思う事すら出来なかった。

 

社内の処理も出来ず、満足に取引先を案内も出来なければ、どんなに現場で100人、200人に製品研修をしたところで「使えない奴」には変わりが無かった。 周りの人は短時間で何でも作るし、提案書もいつも完璧。何やらせても失敗はない。

契約社員でも正社員以上の能力を持った人はザラだった。それに比べて、自分は何も出来ない。   超えられない差を感じた。もう無理だと思った。やる気も無くだ与えられた仕事すればいいと思った。 1週間後、自分は辞めずに残る道を選んだ。4月、新しい期を向かえて自宅から30分くらいの事務所に異動になった。      

「ダメな奴は辞めろ」

異動して、初めてした仕事は事務所の片付け。販売とか営業するためにこの会社を選んだのに掃除や雑用が主な仕事だった。 当然、異動先の上司にも自分の悪い評判は詳細に伝わっていた。

 

朝から共用で使うパソコンの立ち上げが就業時間より遅かったり新しく入った同じ販売職の人のパソコン初期設定が出来てないと、 「何のためにいるんだ!」と喝を入れられた。1ヶ月くらい、雑務だけさせられてようやく1つ担当を持つことが出来た。 しかし、実績なんて全然出なかった。

 

販売に立っても、平日なんて誰も来ないし、家電1つも売れやしない。 どうしたら良いか対策も出せずに時間が過ぎる。   週明けの毎回の報告時に絶対言われることは1つ。

『成績も上がらんダメな奴は辞めろ!!』 毎週、こんな調子で言われ続けた。

情けないけど、しがみつくしかないから、聞こえないふりして仕事を続けてた。    

意地で取った社内表彰

売れないなら、売れないなりに、「売るためにどうやったか」を社内全国へ発信してやろうと思った。

(恥ずかしい話、『よくこんな恥ずかしいアピールしてたな』と思う)

「何人に製品研修した…」「何人に試させて、その内何人が購入につながった…」  

材料になるものは全部、お客さんの言った一言でも、ありったけ発信した。

上司から、「頼むから恥ずかしいから止めてくれ」と言われるまで続けた。

 

「どうせやめるかもしれないから、やるだけやってやれ。」の思いで、

1年間継続していたら、逆に課題提起ということで評価を受けた。

そして社会人になって初めて、表彰を受けた。正直信じられないくらい舞い上がっていた。    

 

調子に乗ってやらかす

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表彰を受けて、調子に乗ってやらかした事が2つある。1つ目はハメを外して、取引先のルールを守らなかったため、取引先を出入禁止になったこと。 2つ目はご褒美だと思って車を買った。また借金を背負った。年収考えたら、買わない方が良いのに無理して買った。 (しかも250万円をローンで)  

 

1つ目の失敗で担当の行く先が無くなった自分は、異動した当初と同じ、雑用係になった。

迷惑を掛けたのは、同い年の新しく入ってきた人で、 せっかく慣れてきた担当の取引先をやむなく変更されて

自分が出入り出来なくなった取引先を担当することになった。

このときは一生忘れられない。これ以上ないくらいの怒りを込めて、同い年の人から怒られた。

今まで経験したことのない怒られ方に、だいぶショックを受けた。

 

「自分は最低だ。クズだ。反省してもまた繰り返す。

何も成長していない。反省したってタダのした振りじゃなかったのか。」 どうして進歩できない。

失敗から1年半の間、馬鹿な自分を責め続けた。

ショックを受けても、失敗を繰り返す自分にただ失望しかなかった。    

1年間グレて、契約社員終了

1年間、「どうせ自分なんて…」としか言わないネガティブな人間を誰も使おうとはしなかった。

上司が異動になって、新しい上司が来た。今までにいなかった上司のタイプで

自分に 「誰でも失敗はある。だからやってごらん。」とスラムダンク安西先生ばりの優しさでグレてた自分をやる気にさせてくれた。

 

奮起して、グレてた時期に1番の趣味になったカメラでもう一度仕事を頑張ろうと思った。

カメラを売るには、触ってもらうにはどうしたら良いかを1日中、ずっと考えては撮って、お客さんに見せて接客していた。 トライしつづけて2ヶ月くらいして徐々に成果が出てきた。

10万円もするカメラを衝動買いしてくれる位までにお客さんが来るようになった。 周りも「頑張ってるな!」と言ってくれるようになった。正社員の道を、目指すために残された日数はあと1年。

 

自分よりも短期間で、正社員になった人もいる。そもそも契約社員100人に1人も受からない確率だが。

ここ直近で何人か採用されているので、周りも「○○(自分)君なら、声が掛かってもおかしくないよ」と言ってくれて、少しだけ期待していた。 だが、契約満了の日が近付いても、延長の話は永遠に来なかった。    

 

転職で異業種、念願の正社員

さすがに雇用契約期間が残り3ヶ月を切ったところで、焦っていた自分は、転職サイトを片っ端から見て応募した。 今まで200社落ちた頃よりは、書類選考で落ちることは少なかったけど面談で落とされる回数が多かった。

 

理由は1つ。「年齢が30歳を超えているのに、能力が低い(販売しか出来ない)。」

自分から見たWord、Excelを使えるレベルは相当高く、とても短期間ではカバー出来そうにない。 だから攻め方を変えてみた。

「販売は凄く得意だけど、営業をさせてもらえる環境が欲しかった。」と言い方を変えたら

企業の方から「会いたい」とメッセージが来るようになった。その内の1つで、ある制作会社の面接を受けて

「風通しが良い、個人が尊重される職場」と説明を受けた。

 

言っていることに納得した上で、年収は下がるけど「やります」と答えた。 そして「正社員」として採用されることになった。   ここでやった仕事は、ナレーターさんをスタジオに呼んで、ナレーションを録音する番組制作だ。

ミュージシャンがスタジオにいて、プロデューサーがベンチで「はいオッケー!」と言っている状況をイメージしてもらえば近い。

形有るモノしか売ったことのない自分にとって、ちょっと面白そうだなと思ったのが、入るきっかけだった。 

 

 

風通しがない、日本古来のブラック企業

入社した後に自分がイメージした企業とギャップがあるのはどうしても避けられない。

ここのブラックさはなかなかだった。 入って1ヶ月の自分に突然辞めた人の後任担当として、担当を持てというのだ。   しかも、周りは助けてなんかくれやしない。

 

「甘えんな!」「成長のためには、現場主義が1番!」と上司は言った。

どうして、自分より偉い人がお客さんに謝罪しないで、 「何も分からない自分が謝罪に行くんだろう。」

率直に質問した自分は怒られながら、1人で客先に向かった。  

もちろん、客先ではこっぴどく叱られた。 取引を終了して他社へ移るなんて事も言われた。

どうすることも出来ず、上司に報告して怒られて、その日は終了した。理不尽すぎる。  

 

その後、入社4ヶ月が経過して経営のトップから呼ばれた。

「自分の配置転換を考えているから、準備してくれ。」どうやら辞めた人の部署に行かせたいらしい。

どう考えても納得出来ないので、丁重にお断りした。

今までやってきた研修や実務経験をムダにして、お客さんとの関係を壊すなんて自分は許せなかったから断った。

当然周りは助けてもくれないのでハッキリ断らなかったら、もっと痛い目に遭っていたかもしれない。  

 

この会社が、30代の離職率40%超えという話は後で周りから聞いて知った。    

 

めげずに7ヶ月で成績トップ、しかしパワハラ開始

夏の中途入社だったので年明けて3月になるまでの間遊ぶのも我慢した。

休日も客先のクレームの電話に出ては謝って必死で頑張った。 

もちろん事情が分からなくて怒られても 「大変、申し訳ございません!」とひたすら謝った。

バカみたいだけど、そうするしか無かった。

 

営業の面では、1年の間で需要が高くなる時期があり、成績アップのための提案を仕込んでいた。

夏や冬のボーナス時期、新生活、年末年始はどこも買い物で忙しくなる。 需要の高い時期に、顧客に向けて自分が準備した資料で「番組制作をしましょう」と提案しまくった。 初めはビビってたけど何件も注文をもらうことが出来た。 その年度、チーム内で営業成績はトップだった。

 

1本の番組はせいぜい10万円になれば超高価だと言われてて、1,000万円売るまで必死に1日1件でも案件を獲ってきた。 たとえ成績トップだからって今までの失敗があるから、決して調子には乗らなかった。 

 

とある日、ある案件で上司から「他の社員が手が一杯なので、仕事を代わって欲しい」と仕事を振られたので了承した。 この案件は実は落とし穴。

特定の持ち物を持たないと現場にも入れないし、仕事すらさせてもらえなかったのだ。

事前に必要な情報は必ず、持っていたはずなのに仕事を振った社員に聞いても「知らない」と一点張り。

  「これはおかしい」と上司に言ったところからパワハラが始まった。

「お前が現場で情報を取れないのが、悪い。」 全部、担当である自分の責任と主張してきたのだ。

 

「こんな場所、いてたまるか。」 この時期から、転職を視野に活動を始めた。

制作会社から結局抜けたのは入社から1年余りのことだった。    

 

 

転職してブラック企業から脱出!待っていたのはさらなるブラック

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転職活動を始めて、間も無く意中の企業が出てきた。条件は今よりも結構良くなる。 未経験だけど、もともといた家電業界だから現場で慣れていけば、数年で実力も付く。

転職エージェントに、 「合格する可能性はある。離職率も低い。アットホームだから、あなたでも大丈夫。」

割と何回も連絡を取って、様々な内容を話してきた人だから、言うことに間違いはないだろうと信じていた。  

 

先方と何度か面接をして、自分も、相手もどちらも好感触だった。

試用期間付きで合格通知をもらい、初めの出勤日を迎えた。 今度務めるのは海外の家電メーカー。

仕事の内容は営業。モノを売る仕事に戻った。 大手なので安定してそうなイメージだ。

 

全体の前で挨拶を済ませ、自分のデスクに案内された。ここまで自分の専用スペースがあるのは初めてだ。 パソコンも支給された。それだけで嬉しかった。

だが同じ部署で教育役として付いた人から、最初の一言で衝撃を受けた。

「まず早く帰れると思うな。朝は7時出勤な。」 目の前がクラクラした。  

 

初日は定時に終わったが、次の日から20時、21時、22時…と日に日に遅くなっていった。

毎日帰るのは早くて22時。標準で0時。起きるのは朝5時。

無茶してるから、1日ごとにやつれていくのが分かった。 職場はマイナスな事を言うのが一切ダメで

「建設的な批判」も命取りになる。   上司はあくまで神様みたいな存在で、逆らうことは絶対に許されない。

全て肯定しなければならない場所だった。 自分に与えられた仕事は、短時間にこなして忙しい先輩達の仕事、事務を処理しなければならない。 時間が掛かると「クズ」扱いされる。  

 

「自分から、毎日残ってでも、休日でも仕事の事を学び続けないと生き残れない。」と周りから言われていた。

毎日学び続けても、結果出すまでには1日でも遅いと言われる風土だ。日々消耗する度に、やる気がどんどん無くなっていき、 自分で何をやるべきなのか考えることさえ、面倒になってきた。  

 

「やりたい事を言ったら、責任を取れよ」

1ヶ月が経ち、教育役や現場に同行させてもらった先輩営業に「どうだ?やれそうか?」と聞かれるようになる。

もちろん「やります!まだ不足しているところは有りますが、○○をクリア出来れば、営業として役目をやりとげます!」 としか答えられなかった。

上司は「やりたい事を言ったら、責任を取れよ」と不気味な雰囲気で言った。 この発言と、やる気のなくなった自分の態度が命取りになった。  

 

度々、個別に呼び出されては「やる気あるのか!」と聞かれ、「あります…」と答えるが、もちろんダメ。

やれ、と言われたタスクも満足にやらず本来の役目とは違う、自分が好きな知識やセクションの人達と話していた。  言ってみれば呼び出しを食らった直後には、なぜか周りが呼び出しの最中、話した内容を全員知っている雰囲気があった。 いつも監視されているようで怖かった。

 

だけど、呼び出しの内容について個人の意見は一切言わず、知らんぷり。

自分には「慣れてくればそのうち、出来るよ」と周りの同僚は笑顔で話してくれた。

試用期間が終わる1ヶ月前、何も無ければ呼び出されることもなく採用されると思っていた。 半分、冗談で試用期間終了1ヶ月前に「呼び出しあれば、解雇かも」なんてカレンダーに書いていたら現実になってしまった。

 

冗談よりも早く、予定はやってきた。予告もなく人事からメールで呼び出された。 個別で部屋まで用意して。

もちろん、良い予感などするはずもなく、自分は「切られるかも…」とだけ思って話を聞いた。  

 

「正式に解雇を通告します。荷物をまとめてください。」

それだけだった。

前もって、仕事が上手く行かない事を、人事に相談していたんだけど同じ部署の中での評価は最悪の最悪だったらしい。 既に呼び出される前に、社内の人は知っていたのだ。これほど笑顔で会話したのに。いきなりナイフで刺された気分だった。 恐ろしい、冷たい感触のように解雇の恐怖がジワジワと実感出来た瞬間だった。

 

 実はリストラ宣告された出勤最後の本当に最後になるまで分からなかったけど、

「誰々がこの日にクビ切られる。」と分かっていても、辞める直前まで笑顔で接している。 恐ろしかった。

人を信じられないくらいショックを受けた。 せめて自分に出来たのは「お先に失礼します」と言って出て行くだけだった。

 

終わってみて感じたのは、昔見た草彅剛さん主演ドラマ『恋におちたら』の主人公、鈴木島男のようだった。

解雇宣告の当日に、パソコン、携帯、IDは無効。即回収、没収なのだ。

海外企業のファイアー(解雇)はスピードが早い。   あっという間に燃えカスになった。

 

両親には落ち着いて起きた事を話しながら納得してもらうしかなかった。

ちなみにその日の夜、本当なら一番楽しみにしていた10年以上好きだった歌手のライブに行く予定だった。

チケットを無駄にしたくないから解雇通告されても見に行ったけど、泣きじゃくりながら、ライブを見た。

周りの人はどう思っていたか知らないけど悲しい気持ちと一緒に、忘れられない辛い思い出になってしまった。    

 

就職難民となって、ビジネスに出会う

落ち込んでいても仕方ないので転職エージェントを通じて積極的に、企業へ応募していた。

だが、短期間で解雇となると状況は厳しい。40社は断られて、途方に暮れていた。 まだ払いきっていないローン(借金含め)があと300万くらいある。 税金は毎月掛かる。あと1ヶ月もすれば滞納せざるを得ない。生活費も苦しい。  

「貧すれば鈍する」ということわざを身を以て実感した。 本当に貧乏になると、考えが明日のことしか考えられなくなる。

何でもいいから仕事が欲しくて毎日SNSや転職サイト、フリーランスの事について 4時間以上検索して、チェックしていた。ある日、今やっているビジネスにつながる投稿を見つけた。 

どうやら、新たに起業したい人を応援するプログラムを募集しているようだ。 よくチェックすると、既に知り合いがその投稿した人の中で、仕事しているらしい…ことに気が付いた。   ダメもとで、知り合いに連絡して「投稿した人に会わせてもらって、話だけでも聞かせてもらえないか。」と頼んだ。

 

あまりに必死で、ワラにもすがる思いだった。数日経って、投稿者の人と連絡を取って会うことになった。

今まで知らなかったビジネスの世界との出会い、第1歩である。今までネットで稼ぐなんて、洋服売ったり、お小遣い稼ぎにポイントサイト登録とか、 懸賞応募で景品を当てて稼ごう!位のどんなに頑張っても1,000円くらいしかもらえないサイトしか知らなかった。    

 

超が付くほど、うさんくさいと思う

世の中、上手い話には落とし穴がある。税金の還付金…とか、必ず儲かる話とか。 だます側にとってオイシイ話は、いくらでも存在する。   過去、大学でMLM(マルチ)で大損を経験した自分は、「33歳にもなってこれ以上、失敗も重ねられない。」と思い込んで徹底的に怪しんで調べた。

調べれば調べるほど、実態のない事務所が出てきて住所も存在しない…ではなく、ちゃんと実体があって目的もある企業だった。 実際に会って話を聞いて、インターネットを使ったビジネスについて自分が以下に何も知らないのが恥ずかしかった。 いかに知らないモノを「怖い」とか「怪しい」と遠ざけていたかが分かってきた。 

 

「Web広告」や「ブログによるアフィリエイト」など、実際に一部の人がやって稼いでいる。

インターネットを使ったビジネスがあることを初めて知った。 以前、Twitterで見た「アフィリエイトやってる奴はカス」みたいな文言を思い出した。 当時は金儲けのためなら、何でもやる奴らだからそうなんだろうな…くらいにしか認識していなった。

実際は、まとめサイトなどでウソをでっち上げ、炎上などを利用して、勢いに乗って金儲けする人達を

「アフィカス」などと呼んでいたらしい。 分かる範囲で調べて、募集していた正しい内容は、「起業を目標として、自分から稼げる能力を鍛えたい人」だった。 ようやく理解した。    

 

やるか、やらないかの葛藤

業するまでに稼ぐ能力を身に付けるプログラムは、どうやらタダではないらしい。 当時40万円くらいするビジネスへの参加費用に自分はまだ、すごく怪しいと思っていた。 調べたのにまだ、納得いく答えを見つけられなかったからだ。

MLM(マルチ)みたいに、だまされるかもしれない。また借金を抱え込んでしまうかもしれない。

もしかしたら、今度こそ失敗したら、破産しなきゃいけないかもしれない。 だまされたくない。失敗したくない。 これ以上失いたくない。わがままな欲求だけど、もう失敗はたくさんだった。

 

だけど、結果的に自分は借金して40万円払ってでも募集に応募する事を選んだ。それは挑戦できる環境が、欲しかったからだ。   既に参加している人の中で、2割以上は月数百万円以上稼いでいる。 この事実が大きかった。しかも自分より年下の人ばかり。いや、年齢は関係ないと思う。

実際に、真っ当なやり方で稼いでいる人がそこにいる。やり方も考え方も聞いて良い。 こんな特典が他にあるだろうか。いや、他にはないだろう。   調べれば調べるほど、真っ当だと判断するに至ったのだ。 あくまで目的は「個人に稼ぐ能力を身に付けさせる」ことだったから。

 

MLMはあくまで、影響力のある人物にどれだけ、自分が近くにいて、他人にその権力を見せつけるかで勝負は決まっていた。 虎の威を借る狐ビジネスと言ってもいい。だけどMLM決定的に違うのは、 あくまでも「自分で稼ぐ力を身に付ける」ことだった。  

一度MLMでハマったから分かる。自分1人の能力だけで稼ぐようになれば自分に影響力があるから、 他の会員を作るために、強引に勧誘したり、契約させたりしなくて済む。 このプログラムだけは「他の情報商材と呼ばれるものとは、全然違う、試す価値がある。」と判断した。  

 

「個人が稼ぐ能力を身に付けさせる」プログラムなんて、今まで耳にしたこともなかったから。 少なくとも、大人数巻き込んで、人生狂わせる商売よりも比べものにならないくらい、予備校みたいで、目的がハッキリしている。

それと、ここでやらなきゃ一生、「自分は変われない」と分かっていたから。

 

どうせ失敗しても誰も見ちゃいないし、気にしても仕方ない。今まで失敗してきたんだから。

とにかく死ぬつもりで努力して、今までバカにしてきた人達を絶対に見返してやろうと心に誓っていたから、

どんな課題、失敗だって怖くはない。 そんなガキみたいな一心でビジネスの世界に飛び込むことになった。    

 

成し遂げたい夢

フリーになって当初、こんな夢を描いていた。

まだ現在は実現しているのは、1日の労働時間だけだがぜひやり遂げたい。

(起業したい)

→旅行で北海道に行くと、空気はおいしいし、食べ物もロケーションも最高! しかし札幌以外、すごいさびれてて人がどんどん減ってて活力がない。 人が減ってるところに、人を集める魅力あるサービスを作って人を呼び込みたかった。

天文学が勉強出来る観測所を作りたい。

・月300万円欲しい。 →3年間で1億円貯めるのに必要な数字。 1億円を運用して、働かずに暮らしたいから。

中央区にマンションが欲しい。 広さは1LDKでいい。5,000万くらい必要。アクセスが良いところがいい。

 旅行するのに、場所がとても良いから。

・地方に拠点が欲しい 旅行先で、便利にアクセスできるように北海道に安くても良いから拠点が欲しい。  

・定期的に写真撮りに行く費用が欲しい。 1回の旅行で10日間、滞在費用20万。毎月行くとして240万円。  

・働く時間は1日6時間 インターネットを使った仕事なら時間は自由に使える。

 満員電車で通勤しなくて良いし、台風や大雪の時も、外に出なくて良い。 余った時間は好きに過ごしたい。    

個人ほど、初めは弱い者はない

White Bed Comforter 

努力すれば、すぐにでも稼げると思っていたのが甘すぎた。 フリーとして働いて3カ月は失敗だらけの無収入生活。 1円も稼げなくて、明日の生活さえ危ない日々が続いた。 今までの会社員生活は、厳しいと言ってもどこか甘えてサボれる環境があった。

社会人といっても、休日になって勉強することもなく土日は寝てダラダラと生活していた。

でも、いざリストラされて1円もない。残ったのは300万円以上のローンや借金だけ。 稼がなきゃ明日、生きていけない。そんな状況になって初めて気付いた。

 

「自分このままでいいのか?」

「このまま終わって悔しくないのか?」って思ったら情けなく、みじめだった。

 

でも、結果が出ないとやる気もなくなってサボり始める。また同じ失敗の繰り返しだ。

受験勉強では予備校から逃げ出して泣きながら夜、友達の家に逃げ込んだ。

法律の資格試験の勉強ではビビりすぎて本番当日、怖すぎて会場に行けなかった。

社会人になってから同じ失敗の繰り返しで何度も悔しい思いをした。

 

とどめのリストラで、今までの努力をゼロ、マイナスにひっくり返されるのが、死ぬほど嫌だったはずだ。

「もう、何が何でもやらないと死んでしまう。」社会人同士なら笑ってすむ会話。

それが自分にとっては明日の自分の姿だと思うと、恐怖以外に無かった。

だから、辛くても乗り切るまでは絶対にやり切ろうと決めた。    

 

 

死んででも稼ぐ。あきらめずに努力した3ヶ月

3ヶ月、ゼロ円の中失敗から逃げずに諦めないで努力できたのはお金を払ってでも環境を変えたからだ。

やる気がなくなったとき既に稼いでいる人の行動を見て、「マイナスな事は考えていない」と学んだ。

「昔はそういう時期もあった」と打ち明けてくれたり「だから頑張れ」と励ましてくれる、仲間がいた。  

「何が何でも変わりたい!]と思う自分に辛いと思わないで、素直に「努力して結果を出そう」と思うようになれた。

 

今までさんざん味わってきた「敗北感」や「コンプレックス」が、自分に負けそうになったとき。

『このまま終わってたまるかよ!』とエネルギーになり、モチベーションを保ってくれた。

だから死に物狂いで稼いでる人たちの周りで話を聞きながら「考え方」とか「やり方」を必死に盗んで真似た。

追いつこうと頑張った。何も分からない世界では、既に上手く行っている人のスタイルを真似すること。

これは科学的にも有効だと言われているからだ。

 

スポーツでも、短距離走の走り方や、ゴルフのスイングもプロから真似するように、指導側のアドバイスもそこから出来ている。   いわゆる「合理的」で「ムダが少ない」やり方だからだ。自分でなりふり構わず、やってもいいけど、永遠に出来ず失敗するだけで終わるだろう。

 

ビジネスを本格的に学ぶのも初めてで分からないことがあれば勉強してやり方が分からなかったら質問しまくった。 しかし3カ月間、何も結果出せず 失敗ばかりしてて「得るものがなかった」と思うと、毎日胃が痛くて、吐き出しそうな気分になった。

でもそれは今まで『常識』の中で培った自分の価値観がまだ抜けてなかったからだ。

『我慢しろ』って勝手に考えが出てきて努力する邪魔をしてた。 我慢は何もしないで、耐えて待っているだけだから。 本当に個人の能力で稼ぎたかったら、『常識』で考えられることやってたらダメだと言い聞かせた。

 

4ヶ月を過ぎたころ必死に夢中になることで、

自分のことで生まれて初めて物事に『没頭して打ち込む』ことが出来た。

今まで1度も何かに打ち込めなかったサボり・ビビりの自分が、物事に継続して、夢中になれた。

例えると、スポーツを上手くなっていくようなそんな感覚に似ている。

 

大げさだけど、人生「ここで稼げなかったら終わり」ってときに初めて自分が楽しいと思えることが

今のビジネスだった。 ビジネスの勉強もだんだんと分かってきて自信が少しずつ出てきて継続していくことが楽しくなってきた。

4カ月過ぎて初めて稼げたときは泣くくらい嬉しかった。

100円とかわずかな金額だが、生まれて初めて自分の力でで稼いだお金。ただ、嬉しかった。

6ヶ月が経って、稼ぎが会社員時代の給料を超えたときハッキリと自信をもって

「フリーでやっていける」と 確信を得た。    

 

月100万稼いで、普段通りの生活になった後

(久しぶりに近所で夕焼けを撮影したとき)
 
ようやくご飯や、旅行する場所、ホテルの料金を気にせずお金と時間を使えるようになった。

サラリーマン時代、国内旅行が好きで北海道は年3回行くために安いプランするのが必須だった。

4泊5日30,000円とか、激安プラン以外に方法はなかった。激安!と喜ぶかもしれないがスゴイことになっている。

1泊3,000円の宿。実は水道とか壊れている

・網戸が壊れて虫が入り放題

・ストーブを焚くとススが部屋に散って荷物真っ黒

・電子レンジに弁当セットすると外国人に喰われてる

・荷物からお金盗られる

まだまだあるけど、「安物買いの銭失い」はこのとき思い知った。日本国内でもあるところには、ある。

 

今はサラリーマンやってた頃より

・1泊3万、4万する宿でも気にせず泊まれる

・旅行先は、大体コンビニ飯で済ませたところ、1日満足するまで好きなものを食べる

・飛行機は広い座席を選ぶ など今までならケチケチしていた細かい事に気を遣わなくなった。

(五島牛を使った贅沢なハンバーグランチ)  

 

時間は自由だし、以前より稼ぎも良くなったし、仕事は自分から作って、やりたいことをやればいい。

満員電車でイライラして顔も見たくない上司のご機嫌を伺ってやりたくもない深夜残業してた時から比べると 考えられなかったくらいだ。  

理想としていた、「通勤や残業、人間関係のストレスのない楽しい生活」。

ようやく努力した結果得ることが出来たけど、変わったのは仕事上のストレスが無いくらいで他は豪華になったとか、そんなことはない。

 

稼げない間くじけそうになったとき、今の環境で仲間が励ましてくれたり、自分へのコンプレックスがなかったら今まで続けることは出来なかった。 もし、元々いた環境を変えなかったら周りの経営者にビジネス相談なんて不可能だった。 もしかしたら今頃、借金抱え込んで破産してたかもしれない。

 

ビジネスを始めた当時、『絶対失敗する』『向いてないからやめとけ』と言った人たちを努力して稼ぐことで、

結果的には見返すことが出来た。 本気で自分を変えるなら 他人の目は気にしたらダメだし、甘えてやらない理由を作る環境は捨てる。 そして、お金払ってでも教えてもらいに行くくらい、あくまでも貪欲じゃなきゃダメだ。

稼ぐためには、「こういう自分になりたい!」って強く思って、自分の欲求を抑えたらダメなんだと気が付かされた。    

「失敗が怖い」とか言っている内は、1万円だって稼げない。稼ぐ人はみんな口を揃えて言う。

だけど「リスクを取れない人は絶対に稼げない。」これが事実、真理だと思う。

安全に稼ぐなんて有り得ない話。それは『絶対に稼げる話』に引っかかるのと同じ。  

稼ぐために、覚悟決めて努力できる人の中で、稼ぐ能力を身につけた人は周りに何人もいる。 ただ稼げない期間、誰にでもある辛い時期は誰にもある。でも自分の人生、自分で選んで やりたいことをやるって楽しい。

 

会社・組織に属して働くことを 否定する気は全くない。でもいつ会社が倒産したり、自分みたいにリストラに遭うかは 誰にも分からない。   このいつ仕事を失うか分からない、『見えないリスク』こそ 最大のリスクだ。 表に出てきたときはもう、手遅れだ。

だったら、後ろ向きにリスクを見ないようにして遠ざけて、割れる風船を持たないようなビビりの選択はやめよう。 自分からリスクを取って、「いざというときはリスクを回避できる」って選択をした方がよほど、いい。

1つのものにしがみつくと、いざという時に昔の自分みたいに生き方に迷うことになると思う。

世の中の変化に合わせて稼ぐ能力を鍛えていく。 これからの時代には絶対に必要になる。

たくさん失敗しながら、 自分は学んできた。

多くの機会や、友人の付き合いを無くして、得てきたものがある。 同じ失敗を繰り返して、激しく後悔したから「自分で稼げるようになりたい」と強く思うようになった。 これから先、もし何か起こっても、稼いでいける自信があるから大丈夫だ。

フリーになることは安定とか捨てることだけど、失敗から得るものはとてつもなく大きい。

稼いだら、それこそ天井はないし、同年代のサラリーマンより倍以上、稼げる。 何より、失敗したことが次の業界、会社では生かせないこともある。 だけど、フリーで得た失敗は全て自分の能力を高めたり、選択を間違えないための材料に出来る。 会社員時代では100年かかっても得られない経験だった。もう少々の事では驚かない。

 

だからこの先も、「数々の失敗が今の自分を作ったんだ」と思いながらも楽しく稼いで、仕事して、 旅行したい。

1度きりの人生、楽しまなきゃ。 こんなにも、失敗を繰り返して、自分を嫌いになっても、ひとつの事で自信を持てるようになれば、誰かの役に立ちたいって思えるようになった。

 

マイナスも相当体験してきたけど、今思えば、全部逆境に負けないための訓練だった。 この年からでも挑戦していけるビジネスはインターネットを使って稼ぐことだと思う。 場所を選ばないし、知識不足も調べれば殆どのことは分かる。誰でも、勉強して実行すれば、すぐに結果に辿り着ける時代なのだ。  

 

「自分なんて」と言っている時間は、もったいない。他の知識を得るために行動したら、1ヶ月、1年経ったらどれだけ賢くなれるか。 今まで、時間はただボーッと過ぎるのを待っていただけだった。 ビジネスを始めるようになったら、どんどん知識を蓄えて、仕事の幅、自分の幅が広がる感覚が楽しくてやめられなくなる。

 

今までの歴史の中ではありえないくらい、これからは個人が能力を高めていく時代。

よりスペシャルな人に、価値を感じる時代が来る。

自分は努力を続けて、誰かの役に立てるようなスペシャルなビジネスマンになりたい。  

(最後に) これを読んでくれた人が、少しでも「明日から自分に優しく、前向きに頑張ろう」と思ってくれたら嬉しいです。 少しでも良いと感じたらシェアしてくれると、もっと嬉しいです。